ジャック・デリダ の言葉 「脱構築」(後編)

 

こんにちは。本日も私のブログをご覧いただき有難うございます。

前回の続きになります。

デリダの「脱構築」を簡単ですが説明したいと思います。

 

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photo credit: Jacques Derrida via photopin (license)

 

 

「言語にはひたすらそれ自体を対象とする部分があり、言語が思考の全部てをしめてしまう段階がある。理解するとは単にコミュニケ-ションが成り立っていることを知るにすぎず、それ以上を求めずに模倣することなのである。模倣し、かつ自分が模倣されていることを知ることである。」*(アラン芸術論54ページ 1行目~5行目)


これは「アラン思想」の「舞踏」という投稿で書いた文章ですが、デリダも同じ事を考えています。

 

「お腹がすいたなぁ」と思う事は、常に反復され続けます。

反復される模倣の中に、それを表現する手段として「言葉」があります。

「お腹がすいたなぁ」という現前(感覚や直感など)が繰り返されますと、「お腹がすいたなぁ」と感じる時には、自然と「お腹がすいたなぁ」と言うようになります。


ややこしいですが、つまりです。


人間は、現前(感覚や直感など)を覚える前に、「お腹がすいたなぁ」という言語を選択しているのです。


現前(感覚や直感など)と「お腹がすいたなぁ」が直結して、一体となっている感じです。


「こういう状態の時はこんな言葉を選択しよう」を無意識に行っているのです。

 

そうすると、現前(感覚や直感など)以前に、もう私達の肉体や感覚には「言葉」が一体となって、セットとなってくっついているのです。

 

さてさて、「言葉」とは便利なもので、自分の都合の良い感覚で表現されます。

それが、一般的な「問い」に対峙する「回答」が用意された世界でした。

 

しかし、アランの言葉も借りれば「模倣」なのですが、デリダ的には現前(感覚や直感など)を反復して出ている「言葉」を、全ての感覚の出発点と見ています。

 

実のところ、私達の世界とは、現前(感覚や直感など)から言葉を引き出して反復した場所であるのです。


私達を取り巻く環境を説明する時、論理的な実態がある訳ではないのです。

 

私達が使用す「言葉」が折り重なって「テクスト」のような状態になります。


そして、現れる「テクスト」に解釈を与えているだけです。

 

この「テクスト」が幾重にも重なり続けて、私達の営みは、歴史という時間を経験していると言う訳です。

 

それは始まりも、終わりも説明できない世界です。

何故なら、その「テクスト」の作者は不明ですし、いつから始めたのかも解りませんし、終わりがいつであるのかも解りません。

 

もっとわかりやすく言いますと、つまるところ、「般若心経」です。


「実体は空である」というお話ですが、「脱構築」も同様に実体を特定してはおりません。


デリダ以前は、実体を特定しない方向性が、正しいと認識はされていなかった訳です。

 この方向性の中に、実は人間の生活が見えてくる訳です。

リアルな日常になります。

 

私達の生活環境は、論理的に説明したり、構造化されたと思い込んでも、それは誰かの書いたような「テクスト」に対して解釈を行っているだけであり、その解釈を別の誰かが解釈して、折り重なった「テクスト」の上に、私達があるだけです。


人間は、都合のよい場所に落ち着くものです。

時代の様々な背景に対して、思想を同化させて「テクスト」上に営みを行います。

「テクスト」上で、様々な論理を交わす事でしょう。


つまり「脱構築」とはこのようにして、これまでの通説である形而上学的な論理を突破する所に、本当の人間の営みを見ようとする契機であると感じるのです。


「科学的」や「構造的」、もしくは「論理的」という思考を巡らせて回答を求めよとしても、本来の世界の実態には「結果」が想定されていないので、無意味ですよというお話です。

計算通りには事が運ばないのも、「結果」が構造化された世界ではないからです。


その事を、デリダは示したのです。

 

デリダの動画がありました。

 

 


今回の投稿を読んでいただければ、何となく理解がされると思います。

こうした動画を投稿される方に感謝します。

 


今回は以上にしたいと思います。

最後までお付き合いいただき、有難うございました。

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